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貧乏を経て泣けるわけで

  つい先日、今日の一語り: すさんだ心に効く映画 で言及した「Always 続 三丁目の夕日」( - goo 映画 )が今日テレビ放映されていたのでまた見てしまった。

 おいおい、わざわざレンタルしてまで見たのに、2週間とおかずにテレビ放映されてしまうのは皮肉だが、泣けたよ。ホント。何度見ても泣ける。

 妻と話したのだが、1作目より、この2作目の方がよく感じるのはなぜかってこと。

 妻の分析では、ハッピーエンドだからだそう。

(以下ネタばれあり)

 

 なるほど、1作目では、吉岡秀隆演じる文学青年と、小雪演じるお水系の女性が好き合いながら別れていってしまう寂しい結末だった。確かに、ハッピーな要素がなかったのだ。

 2作目では、ハッピーな要素が少し含まれたわけだ。でもね、ハッピーエンドだからといってハッピーな要素が全部そろってしまっては、いかにも楽天的に過ぎる、そう、アメリカ映画などでは多い感じのするこれでもかのハッピーエンドになってしまうのだが、決してそんなハッピーエンドではない。

 文学青年は、日々の食事にも事欠く貧乏でダメダメな自分を再起さすべく、芥川賞を目指すも、最終選考を前に落選する。お金も手に入らない。

 でもね、最後、彼女を思って書いた芥川賞のノミネート作品を読んで彼女が帰ってきてくれるという結末にわずかな救いがある。

 アメリカ的ハッピーエンドであれば、お金も愛も手に入れてハッピーという結末が好まれようか。

 しかし、この映画では、愛は手に入れたけど、お金は全然・・・そんな結末。いつか本物の指輪を買ってあげたい・・・そんな思いもかなえられていないのだが、一緒になっていく。

 愛はあるけど、お金はない。

 いいじゃないか。そう思うんだ。

 この映画で描かれているほど、私は貧乏ではなかった。昭和30年代よりは裕福な時代に生まれたが、昭和40年代生まれだ。

 決して、今みたいに携帯電話が小さい頃から与えられ、家にパソコンもブロードバンドも当たり前のようにあるという時代じゃなかった。

 そんなものは、今では、専門家のように思われがちなITオタク的な私でも、自分で自力で買っていったものだったりもするのだ。

 今だって裕福じゃない。ここの語りでも貧乏話がオンパレードだ。妻は毎日弁当を作ってくれて、私も夕食は自炊をして家計に響かないようにしている、外食はたまにしかしない。

 そんな、貧乏な私たちでも、愛によってつながっていけている。それは、お互い貧乏な経験があるからだ。

 とりあえず、私は妻に指輪を贈れた。本物のね。妻はそれを今でも喜んでくれている。そこまで高価な指輪じゃないにもかかわらず。

 その後に起こったいろいろな苦難を二人で乗り越えて来れたのは、やはり、お互いの貧乏な経験からゆえもあろう。

 今の人たちには分からないかもしれないね。ちょっと若い人たちには、もしくは、裕福な環境に育った人たちには。

 ある調査によれば、夫になる男性に求める年収額は700万円以上ということらしい。なるほど、現代において専業主婦として安穏と暮らすに足る額と言えばそうなろうか。しかし、どこに年収700万円以上の適齢期の男性がそうそういようか。

 そして、そのような考え方が出ること自体、お金を中心にものを考えてしまっている証左だろう。

 でも、お金では買えないものがある。そんなことをこの映画が再認識させてくれるからこそ、泣けるのだ。

 ダメダメな自分・・・それでもいいじゃないかと思えるのだ。

 そんな現実的はないことでカタルシスを感じてるってどうかと思うって?

 そりゃ負け犬のキズ舐めかもしれないが、そうやってキズを舐めながらだってね・・・そう、生きていくことが重要なわけだよ。

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