人は過大な力を持つと暴走するものである ~人殺しの手段は持ってはいけない~
さて、私は映画ファンであり、3度のご飯と同じくらい映画好きであることから、映画的観点から平和を考えてみよう。
ちょっと前になるが、非常に話題になった映画「華氏911」を覚えていらっしゃるだろうか?突撃レポーター兼監督というユニークなマイケル・ムーア氏の映画である。イラクに子どもを送っていない議員達に突撃インタビューをしたムーア氏にほとんどの議員がノーコメントであったラストシーンを思い出す。
この映画は、非常に皮肉を効かせながらも、俗っぽく言えば、おちょくりながらも、戦争反対を訴えている映画であり、とても効果的な表現であったのは周知のところであろう。
そのムーア監督の出世作といえば、「ボウリング・フォー・コロンバイン」であることも周知の事実である。
この映画はコロンバイン高校の銃乱射事件の背景に何があるのかということを克明に追った、やは突撃レポート的映画である。銃乱射事件の背景にはアメリカの銃社会があるとし、多くの弊害をもたらしている銃を削減ができないのは全米ライフル協会が巨大なロビイストとして存在して、政治に巨大な圧力をかけているからだということを、痛烈に皮肉った映画となっている。
そう、銃・・・その人殺しの手段を持った時、人はそれを使ってしまうということをまざまざと分からせてくれる。そして、銃という人殺しの手段があるということが既成事実・既得権益として存在してしまうとそれを撲滅することがほとんど不可能であるということも、非常に実感を持って分からせてくれる。
この映画を見るに、銃の保持に賛同する人たちは銃の自衛の効果を説くが、ムーア氏は、それを皮肉り、かえって子どもたちが銃を乱射するという事態を招いてしまっていることを映像を通じて訴えかけてくるのである。自衛のために持った銃・・・なるほど、かの名西部劇「駅馬車」などではかっこよくでてくる。銃は悪人を追っ払ってくれるすばらしいものである。しかして、それは今、犯罪の増加においてアメリカ社会を苦しめている存在に他ならない。その象徴的な事件がコロンバイン高校の銃乱射事件なのである。
それにしても、「駅馬車」でジョン・ウェインが銃で撃ち殺したのはインディアンであり・・・今では、インディアンは悪者どころか、不当に侵略された被害者であることは明らかになっており強烈な皮肉ではあるが・・・
日本における憲法9条周辺のことを思い返すに・・・非常に考えさせられる。9条を変えても、軍隊という人殺しの手段を持とうとしてしまっている考え方が表明された。人殺しの手段である軍を持たんとしている。これは、自衛自衛という旗印の下、銃を持つことに等しい。そして・・・その先は・・・
そう、銃社会が高校生の銃乱射につながり、今ではハイスクールに警官がいるまでに暴走をしたのと同じように、終局的には暴走をしてしまい収集がつかなくなることは容易に想像されよう。
そう、戦前の軍部が議会の制止を無視して暴走したことを、必ず歴史で学ぶではないか。
ただでさえ、実質的な軍隊である、自衛隊が存在してしまって、既成事実・既得権益として存在してまってこれを引っ込めることが困難であることは、アメリカ社会で銃を撲滅することが困難であるのと同じくらい困難であることに共通点が見いだせるのだから。
既成事実を引っ込めることができない・・・これは今日郵政民営化法案が廃案になったことでよく分かるではないか。郵便局という既得権益が政治を制御してしまったいい例である。
自衛隊は、まだ、9条の足かせが最後の砦として残っているから暴走していない。
この足かせを外して、人殺しの手段たる軍隊を既成事実化し野に離すことは、どれほど恐ろしいことか、よく考えた方がよい。
コメント
マイケル・ムーアの「華氏911」見ました。
「コロンバイン~」は見ていないのですが、その事件をもとにした映画を見たのでTBいたします。
銃がなくても平和でいられることを望みたいです。
投稿者: chihana | 2005年08月10日 15:55
TBありがとうございます。
ほんとですよね・・・銃がなくても平和でいられること・・・そんな当たり前のことが一番貴重だと思います。
chihanaさんは本当に色々なことをかんがえていらっしゃいますね。すごいです。
投稿者: 大津和行 | 2005年08月10日 23:15
わたしはインディアンの立場にはなりたくないですなぁ。
歴史の本をさらさらとめくりましても、書いてあることは「相対的に力のある集団は力のない集団を蹂躙する」ということの繰り返しです。
理性の存在は認めます。
けれど、人間は神ならざる動物の一種です。
理性ばかりで物事が進まないのも、また歴史の常なのです。
人類が人殺しの道具を捨てることは立派なことに見えます。
ですが、ご立派な理念に殉じて死ぬ可能性を作るのはごめんです。
武器を捨てたとたんに後ろからグサリじゃ、かないませんからなぁ。
そりゃ、理念を念仏のように唱えていた人たちが殺される分には、理念に殉じて本望かもしれませんが、国家と国家の戦の場合はわたしやわたしの家族、子孫など関係する人々が巻き込まれるのです。
無責任な言質でわたしや家族、子孫などを関係する人々を危険にさらすのはごめん被りたいものです。
歴史を紐解きましても、力のない集団が蹂躙されるのは再三の通りです。
恐怖の連鎖といっても、そこから自分だけ「関係ないよ」という顔をしても、待ち受けているのは暴力による蹂躙です。(そこに目をつぶることは、それこそ「歴史から何を学んだのだ?」といいたくなります)
所詮人間というものは動物であり、平和平和と唱えていれば、平和になるほどおめでたくありません。
警察という暴力があるからこそ、わたしたちの治安は守られ。
軍隊という暴力があるからこそ、わたしたちの平和は守られているのです。
所詮は力と力の均衡なのです。
理性を語ることは結構なことですが、理性に偏り現実を見ないと、単なるきれい事に陥ると思うのですがいかがでしょうか?
わたしはきれい事に殉じて死ぬのはごめんです。
投稿者: 隊長 | 2005年08月25日 21:23
ぴったりな言葉がありましたので、一つ引用を。
「血を流す事を厭うものは、血を流す事を厭わないものに必ず征服される」
(クラウゼヴィッツ)
>今では、インディアンは悪者どころか、不当に侵略された被害者であることは明らかになっており強烈な皮肉ではあるが・・・
後生のおためごかしが彼らを救うことなどあり得ません。
白人はネイティブアメリカンに土地を返しましたか?北米大陸から出ていきましたか?
マオリには?インディオには?アボリジニーには?ケルト族には?
「不当な侵略だ」
「だから?」(終了)
という話です。
世界中あらゆる所で、
歴史上あらゆる場面で、
見られてきたありふれた単なる「力の弱い集団が力の強い集団に蹂躙される」というパターンの一事例です。
どこがどのように強烈な皮肉なのでしょうか?
あなたは自分の言説の空しさについての"皮肉"とでもおっしゃりたいのでしょうか?
歴史を紐解き、力の対立の無い時代があったでしょうか?
平和・安全といっても力の均衡のことです。
有史以来続いたことがいきなり変わるでしょうか?
少なくとも今現在は変わっていません。
事実を見ずに理想を語る人は、人間という動物を買い被っているのではないでしょうか?
我々日本に必要なことは、強い力に対抗しうるだけの力を持つことです。
甘美に聞こえるが空しい言葉が、わたしたちの実(安全・資源・生存)を蝕んでいるのではないか?
と、いう恐怖がわたしにはあります。
我々が勝ち取らねばならないのは、まさに実の部分です。
実のみが我々の腹を満たし、住む場所を与え、寒さや暑さから守り、生存を継続させるものであるという当たり前のことを「豊かさにかまけて」彼らは失念しているのではないか?
と懸念するのです。
いかがでしょうか?
投稿者: 隊長@八玉子煩悩隊 | 2005年09月06日 06:33