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2009年10月31日

複葉機・三葉機が活躍する戦闘機映画を見る

 映画「フライボーイズ」( - goo 映画) を見た。

 第一次大戦時のフランス-ドイツ戦線におけるアメリカ人義勇兵パイロットの活躍を描いた作品である。

 いわゆる戦闘機ものと言えるだろう。

 戦闘機ものというのは、ハリウッド映画などにおいて、たとえば、現代を舞台にするが「トップガン」に代表されるように戦争映画の一分野を形成しているように思われる。

 ただ、この映画のユニークなところとして、第一次大戦時の戦闘機乗りの物語というところ。翼が2枚ある複葉機や3枚ある三葉機がドッグファイトを繰り広げる映像はなかなか見られない映像だと思う。

 私は、宮崎アニメの 紅の豚 - Wikipedia が大好きなのだが、紅の豚でも複葉の水上機がドッグファイトを繰り広げるシーンが多用されており、それを彷彿とさせる映画でもある。

 ただ、こちらの映画はもちろん実話に啓発されて作られているものなので、仲間が戦死する仲間も出てくるわけで、その意味では戦争のむなしさを感じざるを得ないものである。

 紅の豚の主人公は軍隊を抜けていわば義賊として海賊退治を担っていながら殺しは絶対にしないというフィクションならでは戦闘機乗りであるのに対し、この映画で描かれる戦闘機乗りたちはいつ死ぬかもしれないという中で生きるか死ぬかのドッグファイトを繰り広げている点でリアルである。

 戦闘機マニアには垂涎の作品とも言えようし、戦闘機乗りを格好良く描いてはいるが、やはり、戦争のむなしさというものがひしひしと伝わってくるのはこの映画でもそうであった。

 主人公演じるジェームズ・フランコはかなり格好良かったね。

2009年08月15日

平和の尊さを感じる日

 今日は朝起きて、今日は終戦の日であることを思う。

 そう、毎年思うのだ、終戦の日に平和の尊さを。

 いろいろな側面から思うところであるが、今回は、召集令状、通称、赤紙に関して考えた。

 戦中は、この赤紙一枚で、国家の圧力のもと、人々はその意志に関係なく軍隊に招集された。軍隊とは端的に言うと人殺しの手段的組織である。通常、人はそんなことはしたくないと思っていよう。それでも戦中は赤紙でもって軍隊という人殺しの手段的組織へ入ることを国家の圧力をもって強要されたわけだ。

 今は戦後、そのようなことがなくなっている平和の世だ。それは本当に尊いことだと思う。

 戦後生まれの私は、赤紙がないのが当たり前の時に生まれてきた。しかしながら、それは本当に貴重なことなんだと認識し、平和の尊さを改めて感じるのが今日である。

2009年08月09日

11時2分に黙祷できた ~長崎原爆の日に~

 今日は日曜日。お休みだったので家でリアルタイムに長崎での平和宣言をテレビで見ることができた。そして、原爆投下の時刻、午前11時2分に黙祷を捧げることができた。妻と一緒に。それができたことがとても良かったと思う。

 8月6日の広島原爆の日、今日、8月9日の長崎原爆の日にしても、どうしても平日にあたりがちで、日常に忙殺されてしまうことが多い状況下、意識を平和に持っていくことに困難がある場合が多いのだが、休日の今日、心安らかに平和を思うことができたのはとても良かったと思うのだ。

 長崎市|平和・原爆|長崎平和宣言

 長崎市長がとても明快に宣言していて良かった。そう、大量殺戮兵器たる核兵器をこの世界からなくそうという明快なアピールがあって良かったと思う。

 長崎旅行記-もてない男のその後の語り内コンテンツ で語っているように、私は2003年のやはり夏、7月初旬に長崎を訪れ、原爆資料館の隣のホテルにて宿泊した。原爆資料館にも行って、その迫力に圧倒され、平和を考えざるを得なかった。

 長崎市長が宣言の中で語った「被爆地・長崎へ来てください。」という訴えは本当によく分かる。

 原爆資料館はたとえようのない迫力があり、なんと戦争が無益か、大量殺戮兵器の残酷さが身体で感じ取れるから。

 この平和な社会はなんとしても守って行かねばならないところだと再度実感した今日であった。

2009年08月06日

真夏の日、平和の尊さを思う

  今日は広島に原爆が投下された日。

 地球温暖化ゆえだろうか、毎年、かなりの暑さとともに原爆を思うことが多い。

 そう、1945年のこの日の広島もとても暑かったと聞く。

 決して忘れてはいけない日だろう。

 戦争という状況下において、多くの人が一瞬にして命を奪われたことを思うに、今の平和は本当に尊いものなのだと実感する。

 戦時のように言われなく命を奪われることがない社会が今はある。それを守って行かねばならないということを痛感する。

 広島の原爆での犠牲を思うと再認識せざるを得ないのだ、その平和の尊さを。

2008年12月06日

とても迫力のあるドラマだった

 テレビ朝日|男装の麗人 を見た。

 とても迫力のあるドラマだった。描かれる男装の麗人たる川島芳子さんの生涯は、近現代史が好きな私はおぼろげながら知っていたが、

 時代に翻弄された女性の生涯のドラマということだが、確かにその通りなのだが、時代に翻弄と言うと何か中和されてしまっているが、「戦争」に翻弄された人生ということになろう。

 戦争さえなければ、もっと違った、より穏やかな人生があったに違いないと確信されるのだ。

 どんな大義名分のもとでも戦争は正当化されない、されてはいけないと強く思わされるドラマであった。

 そんな平和を考える意味でとても意義深い、迫力のあるストーリーでよかった。

2008年08月15日

8月15日に感じる命の尊さ

 今日は終戦の日である。
 戦争でお亡くなりになった方々に黙祷をささげた。

 終戦の日、人々がとみに感じたのはこれで生きることができる、生き長らえられるということではないだろうか。

 その気持ちは本当によくわかる。

だれだって生きたい。死にたくなんてない。当たり前である。
それをお国のために、天皇陛下万歳と死なねばならず、その死を悼むことのできない風潮があったことも事実であり、そのくやしさはいかばかりか、思い余るほどである。

その反省もあったのだろう。日本は本当に命を大事にする制度が戦後多く生まれてきた。
みんなで弱者を助け合う仕組みである国民健康保険制度などは弱者のための保険だろう。国民皆保険制度も戦後まもなく敷かれた制度であって、貧富問わず一定の医療が保証されるすばらしい制度と言える。また、最低生活を支えてきた生活保護の制度もある。

 しかしながら、財政難のもとそれら諸制度ももだんだん弱者に厳しい制度になってきている。財政難からの療養病棟廃止などはその典型かもしれない。老人ホームなどの受け皿ができていない中で、療養病床を減らせば、自立して暮らせない高齢者はどこへ行けばいいのだろうか・・・お金と命が天秤にかけられてお金が取られてしまっていると言えまいか。また、後期高齢者医療制度制度なども保険制度が弱者に厳しくなっている一例だろう。高齢者からどうやって保険料を取らんかと考えられた制度に多くの人には見えるであろう。お金を出せばよりよい医療が受けられるという混合診療の制度も最近ちらほら論議に上がっている。今までは国民皆保険制度のもと一定の医療が保証されていたが、混合診療の考え方ではよりお金を払った人によい医療をというロジックになり、これは裏を返せばお金がなければよい医療が受けられないということになる。

 終戦の日の今日、人は生き続けられることを本当に喜んだと思う。そう、生きるって大事なんだ。その思いの上に、弱者も含めて生きていける制度作りがなされたと思う。

 でも、今は・・・弱者は生き残るのに厳しくなってきている世の中である。お金と命が天秤にかけられているようではなはだ悲しく思えてくる。

 弱者も含めて生きる・・・お金より命が尊いだろう。

 そんな思いを今日、終戦の日に感じた。

 戦争はあってはならない、命を奪う戦争はあってはならない。そして、命を守るための最大限の努力は払っていかなければ・・・そう思った。

2008年08月09日

11時2分

 今日は8月9日。11時2分、この日時を忘れてはいけないだろう。
 長崎に原爆が落とされた日時。

 今日は土曜日で休日だったため、記念式典の模様をテレビで見ることができた。

 11時2分から妻とともに黙祷した。

 戦争はいらない。その思いを新たにした。

2008年08月06日

8時15分

 いつものようにあわただしい朝。
 いつものようにばたばたと家を出る。
 今日が8月6日であること、そしてその8時15分の意味。
 広島に原爆が落ちた日時。
 幼い頃の原爆教育により刻み込まれた日時。
 忘れずにいられることに感謝したい。いい教育をしてもらえた時代だったと思う。
 今はどうなのだろうか。ここまできっちり原爆の記憶を刻み込ませてもらえているだろうか。
 忘れてはいけないものである。
 原爆・戦争のむなしさに気付けているだろうか。

2008年05月02日

映画「大いなる陰謀」を見た

 映画「大いなる陰謀」( - goo 映画)を見たのだ。

 かなり久々の劇場での映画鑑賞であった。妻が夜出かけていることから、一人時間があったため。また、この映画、前売り券を買っていたが・・・大々的に上映されているのは今日までのようであったため、あわてて見たという次第でもある。

 まぁ・・・この映画、平和論としては非常に意義深いものであった。ただ、映画論として、映画が面白いかと言われれば・・・正直微妙である。

(以下ネタばれあり)

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2008年02月06日

映画「父親たちの星条旗」を見た、とってもいい映画である

 映画「父親たちの星条旗」(父親たちの星条旗 - goo 映画父親たちの星条旗 | 硫黄島からの手紙

 非常にいい映画だった。昨日見ていた映画はこれだったのだ。

 クリント・イーストウッド監督による日米双方から描いた硫黄島2部作ということであるが、今日の一語り: 映画「硫黄島からの手紙」を見たで語ったように、一つは見たのだ。

 そこで痛感したのが、やはり、戦争のむなしさである。「硫黄島からの手紙」の方は日本からの視点であるが、戦争というものがこれほど矛盾に満ちたものなのかということをまざまざ座と実感させられた。

 さて、今度はアメリカの視点からの硫黄島の戦いを描いた、本作「父親たちの星条旗」・・・これもまた、同様の感を抱かせるものであった。

 そう、勝者アメリカにしても、硫黄島の戦いは多くの傷を残したものであり、そしてこの映画で非常に特筆すべきは、勝者の中で英雄(HERO)として祭り上げられた3人の兵士も、また、必ずしも幸せになれなかったという実話に基づくプロットである。そう、戦争という殺し合いは、勝者にとっても何も生まないどころか傷を残すものなのだということ。そこが新鮮なプロット立てだ。

 いつものことながら、戦争あるまじき、そのような思いが実感される映画だ。

 まぁ、戦争によるHEROのむなしさというロジックとしては、スピルバーグ監督の「プライベートライアン」に通じるところがある。まぁ、「プライベートライアン」の方が迫力としてはあったろう。

 しかしながら、この映画も同じロジックながらも、違った状況であるのが新鮮である。

 平和を考える上でも、ひとつオススメの映画と言えるのではないだろうか。

2007年12月24日

江戸東京たてもの園へ行く

Moblog Photo

 東京の小金井市にある大きな公園、小金井公園内にある江戸東京たてもの園に行った。
 いろいろな伝統的な建物があって見事であったが、一番心に残ったのがここ。高橋是清邸。
 2.26事件で殺害された経済通の政治家たる高橋是清の殺害当時の邸宅を移築したところ。
 ただならぬ迫力を感じたのだ。
 。インフレを抑制のために軍事予算を縮小しようとしたことから軍部の恨みを買い殺害された政治家宅。暴走した一部部隊のなせる事件として処理されたものの、実態はそのまま太平洋戦争への暴走へのきっかけとなったことは歴史を学べば自明のこと。この邸宅の二階で殺害されたとのこと。その二階を見てきた。実際に見られるのである。 
 人殺しの手段たる軍隊というものを保持してはならないとこれほど雄弁に語っているものはないであろう。
 平和への想いを強めたひとときであった。

2007年11月26日

久々にいい映画を見た ~映画「トンマッコルへようこそ」を見て~

 トンマッコルへようこそ - goo 映画 を見た。

 韓国系の映像というのは、古き良き時代の倫理観のようなものが息づいているのが人気の理由なんだろう。

 ドラマにしろ映画にしろ。

 昨今の日本はやや頽廃性さえ感じさせる世知辛き世であるからこそ、その純粋さに惹かれるのだろう。

 その意味で、この映画は非常に、純粋な映画で、見ていて気持ちがいい。

 笑い泣きが同時にできる純粋なストーリー。しかし、古き良き伝統的倫理観というものを超えて、分断国家の悲哀という日本では扱い得ないテーマには迫力を感じざるを得ない。

 私は韓国と北朝鮮の間にあるマジものの非武装地帯に二度も実際に足を踏み入れている。その緊迫感、分断の現実に直面し、その悲哀を体感した(2003/12/21一語り2002/06/21(Fri) の一語り 参照)。

 だからこそ、その分断の悲哀の迫力は体でもって共感できたからなおさら感じるところ多い。

 ストーリーは純粋にして秀逸。わかりやすいのもいい。

 そして、種々の平和を語る映画は多いが、この映画ほど平和の尊さ、戦争の愚かさを雄弁に語り得ている映画は多くはないだろう。

 それほど、とってもいい映画。

 おすすめである。

2007年08月15日

大田区平和都市宣言記念、花火の祭典を見た

 東京都は大田区の平和都市宣言記念たる花火の祭典を見に行った。毎年、終戦記念日たる8月15日に行われている花火大会。

 その意識にも非常に賛同できるわけで。平日と言うこともあり、混雑具合もそこまでひどくないのでうれしいわけである。

  デジタル一眼を持っていった。

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 花火撮影というのはなかなかに難しいものだが、今回は280枚超というなかなかの枚数を撮ってみたり。まぁ、今までは失敗ばかりであったが、今回はマニュアルで・・・そこそこ撮れたかなというところ。一部を公開。

 本当にきれいな花火であった。妻と一緒に出かけたが、いい気分転換になったと思う。暑かったけどねぇ。

 結構近くから見ることができて、いい花火大会であると感じた。

 

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アニメや絵本を通じて平和を考えよう ~終戦の日にあたって~

 今日は終戦の日である。62回目の終戦記念日ということだ。

 終戦を記念するということ・・・やはり、これで戦争をしなくて済むのだ、人が死んだり、殺したりすることがなくて済むのだ・・・その思いが終戦を記念するということにつながっているのだろう。

 平和の大切さ、ありがたさを実感する日である。

 テレビ朝日系列で放映されていた『'07戦争童話 ふたつの胡桃』を見た。童話アニメという形で戦争の悲惨な実態を描き込んだ名作に感じられた。すごくいい話であった。

 最後にほっと癒されるファンタジーのお話でありながら、戦争の悲惨さをよくよく感じさせてくれる物語。多くの子どもたちに見て欲しいと思った。こういうドラマを見ていく限り、戦争をしたいという思いはひとつなくなるんじゃないだろうか。

 この戦争童話のシリーズ、2002年から連続して放映されてきているらしい。こういうものが健在である以上、ちょっとほっとする。

 アニメ・童話という形は戦争の無益さを伝え、平和を考えさせるツールとして、子どものみならず大人にも有効なのではないだろうかとさえ感じた。

 原爆の日から終戦の日、そのような夏の日に平和への意識が高まる私・・・昨日は奇しくも、絵本「アウシュビッツからの手紙」(早乙女勝元 著、岡野 和 絵、日本図書センター)を読んだのだ。本当に戦争というのはなんという矛盾だろうか、なんという無益で、こんなにも残酷なものだろう・・・ひしひしと感じさせられた。絵本であるが、大人が読んで平和を考えるに非常によい本と感じたのだ。実際、絵本といいながらこの本の内容は小学生であれば高学年くらいから対象にした方がよいくらいに感じた。 

 絵本やアニメ・・・ビジュアルがある分、本当に戦争の悲惨さが分かってくる。

 その意味で、アニメや絵本・・・こういうもので絵本を考えるのは有意義なことに感じたのだ。 

2007年08月09日

長崎原爆に思いを馳せ、戦争はあってはならぬものとの思いを新たにす

 今日の午前11時2分、黙祷をした。

 1945年のこの日この時間、長崎に原爆投下されたのだ。

 数年前、長崎に行った。行ったことがなかったからだ。その時の旅行記は次を参照されたい。

 もてない男、長崎に行く

 この旅行記でも語ったが、平和について考えざるを得なかった。

 そして、忘れ得ぬところにも行った。長崎の原爆投下後、自ら瀕死の重傷を負いながらも被災者救済に尽力し、その後寝たきりになってからは原爆の被害を執筆を通して世に知らしめることに尽力した永井博士が住まっていた如古堂である。

 永井博士に関しては次のサイトを参照されたい。

 己の如く人を愛したひと ~永井 隆~

 その展示を見て、今でも鮮明に覚えていることがある。

 戦時中、終戦間近の究極的な物資不足でレントゲンを投影するレントゲン板がない状況で、それでも、目で透視すれば結核等の病巣が分かるという極限状況において、永井博士は検診での透視を続けたのだ。もちろん、自身を放射線の暴露から防ぐ手だてがない。けれども、見れば分かる病巣をみすみす逃すことができないという思いから、自らの放射線被曝をかえりみず、立ち続けたのだ。原爆での被爆前にすでに余命3年の診断を下される白血病におかされていたのだ。

 ものすごい衝撃を受けたことであった。

 そして、戦争というものがどんなにか憎むべきことか、これほど実感したことはなかったくらいの思いであったのだ。

 戦争が招きこんだ物資不足(原料国でない日本が戦争を起こせばこうなることは必定であったのだ・・・)によるレントゲン板不足がなければ、永井博士はこんなにも苦悩の決断を迫られなかったであろう。

 なおかつ、戦争がなければ原爆が落ちることはなかったのだ。

 どんな大義名分があろうとも、人の殺し合いたる戦争は許されてはいけない。人殺しの手段たる軍隊は持ってはいけない。

 長崎の原爆の日の今日、その思いを新たにした。

2007年08月06日

広島市長平和宣言を読んで

 今日は職場に着いたら、8時15分は過ぎていた。

 そうか・・・今日は原爆投下の日、そして、原爆投下の時間、8:15は通勤途上で過ぎたんだなと感じながらも、今日の仕事の奔流に巻き込まれていったわけだ。そう、結構忙しかったかもしれない。

 帰ってきて、妻が、朝の広島平和記念式典の中継を見た話をしていた。平和宣言の話も出た。

 それで、夕刊を開きつつ、秋葉広島市長の平和宣言の全文を読んだ。

 すばらしい主張であった。ここまで明確に反戦を唱え、憲法9条のすばらしさを主張する公人は他に類を見ないのではないだろうか。

 昨年の8月10日の一語り「広島・長崎を素直に分かろう」、一昨年の8月7日の一語り「原爆の日に実感する平和の尊さ、現憲法の尊さ」で語ってきたような考えを持っている私にとって、その平和宣言は実に心打たれるものであったのだ。

 平和の尊さ、戦争の愚かしさ・・・その当たり前のことを素直に分かっていけば、軍を持とうとか、核の威力を欲しいとか思わないし、思えないと思うんだが。そのことを、平和宣言は素直に分かられてくれる。

 私にとって、夏の暑い日、この時期は、平和を考えざるを得ない時期だ。

2007年05月28日

食と生への執着と平和について

 私ももう30歳代中盤の年頃で、年相応に食が細くなってきていて、昔ほど食べることができないにもかかわらず、大盛り・デカ盛りネタには飛びついてしまう。

 かの人気番組TVチャンピオンでのデカ盛り王選手権の番組にも釘付けになってしまうし、さっきまでデカ盛りの店検索をしては「萌え~」な感覚を持ってしまっていたわけだが。

 そんな風に、ご飯は大盛り、お代わり自由だと目を輝かす私を見て、以前友人が「あなたは本当に一生懸命生きているって感じだよね」という表現で私を評していたことを思い出す。

 その友人が言うには、食べるということは生の基本であり、それにそんなに一生懸命になっている私は、本当に一生懸命生きているんだと感じたということだ。

 なるほど・・・と思った。

 確かに、私は生へ執着していると思う。それは悪いことでは決してないと思う。一生懸命生きる・・なんとか生きる。そのためだけに今までやってきたようなものだ。生きてきた結果、妻とも出会えたわけだ。

 そして、私の生への執着は、同時に私の平和概念の基盤をなすものだと思う。

 実際、生への意識ゆえ、国のために死ぬのだという戦前の意識にはまるっきり賛同できないわけである。

 反対に現憲法への共感は深い。現憲法は、戦前の集団主義国家体制が国民を死地に追いやった反省ゆえに、個人の幸福追求という人権上当たり前のことを国家権力の侵害から守ることを宣言しているわけだから。

 しかし、最近はその憲法を変えようという国民投票法案を通過させてしまったし、また、特攻隊を美化してしまっている映画も上映され始めたようだ。

 ちょっと、どうなのかな・・・。

 現憲法が国民・市民の人権を踏みにじって死地に追いやった全体主義国家体制の戦前への反省に立っているものということを認識しているのだろうか。認識していれば、そうそう、変えようという発想が出てこようはずもないのではないだろうか。特攻隊で飛び立った若者たちは、戦前の全体主義国家体制によって死地に追いやられた犠牲者にほかならず、あたかも自ら死を選んだかのように思わせる映画の題名はどうなのだろうか。

 夕方、テレビを見ていた。ニュース番組の一環でデカ盛りの店を特集するようだ。その前後に、いろいろな局のニュースにて農林水産大臣が自殺したとの報も併せて放映されていた。生と死、対照的であった。

 デカ盛りの特集を見ながら私は生きていこうと思ったのだ。あそこにも行きたい、ここにもいつか行ってみよう。今日はちょっと風邪気味ではあったけれども、デカ盛りはそういう気力を沸き立たせてくれる。生きていなくては美味しいお店に食べに行くこともできないのだ。

 生きていくためには、平和でなくてはならない。平和を求めるのに現憲法以上のものがあろうか。戦後に、国民・市民を死地に追いやった全体主義国家体制の反省を一番よく感じていた戦後直後に作られた現憲法以上のものが。それを変えんとするのは、どうしても、生への志向とは思えない。

 食と生と平和・・・これらを守るために手に取るのは銃ではないと思うよ。

2007年05月14日

国民投票法案成立に思う ~軍事力というパワーは危険すぎるだろう~

 自衛隊は軍的様相を呈しているから、いっそのこと改憲して軍として認めようじゃないか・・・

 2005年の自民党新憲法草案からはそんな風なことが感じられたし、そのへんは2005/8/2一語り「日本に軍隊は必要なのだろうか」に語ったとおりなのだが・・・

 結局、2005年の自民党新憲法草案に沿って改憲を訴えている流れの中での、国民投票法案成立。その意味するところは・・・想像するのは難しくないだろう。

 2005/8/10一語り「人は過大な力を持つと暴走するものである ~人殺しの手段は持ってはいけない~」にも語ったとおりなのだが、軍事力というパワーは危険すぎると思うのだ。

 2・26事件にしても、5・15事件にしてもそうである。そこに軍隊があったから暴走してしまった過去があるのは日本史で学ぶとおりである。

 人は制御しきれないパワーを持つと、それをもって暴走してしまう危険が出てくるのは自明なのである。

 憲法というものをこれからでもいい・・・よくよく考えて行かねばならない時期に入ったということなんだろう。

 憲法とはなにか、平和とは何かということを。

2007年05月13日

映画「非常戦闘区域」を見た

 映画「非常戦闘区域」を見た。

 前にも見たことがあったのだが・・・ネットの無料配信サービスで配信されていたので思わず。

 非常にいい映画である。一時期、ユーゴ紛争に関しての映像作品をいろいろと見ていたこともあり、私自身が平和論に目覚めたのも、何かの映画でユーゴ紛争に興味を持ち、いろいろ調べていく中でそれまで当たり前にしてきた平和について、当たり前にしてはいけないんだなと感じさせられたからだ。

 この映画も、ユーゴ紛争のただ中に多国籍軍として派遣されたスペインの若き兵士達の姿をリアルに描いた戦争映画なわけだが、中立の美名のもとにいくら振る舞おうとしても戦闘に巻き込まれてしまってはどうにもならずに戦闘といういわば人殺しの渦に巻き込まれていくということが肌を通して分かる名画。

 これはスペイン映画だが、日本でも憲法9条を変えんがためと言わずもがなで分かる憲法改正の国民投票法案が通らんとしている今、見直すと、非常に意義深い映画と思われる。

 自衛隊の国際貢献の美名のもとでの海外派兵も、いつこのような事態に巻き込まれるか分からないことがよく分かるだろう。

 その意味で、憲法9条の尊さがよく分かる、そして、平和を何に変えても守らねばならないものだという意識がこの映画を通じて感じ取れるだろうと思うんだ。だから、これは名画だと思う。映画の迫力的には、「ブラックホークダウン」とかのアメリカ映画の方が迫力はあろうが、これがスペイン映画だということにも注目したい。

2007年04月13日

映画「男たちの大和」を見て、国民投票法案や平和を思う

 なんとなく録っておいたものを見たが・・・

 うーん・・・、特筆すべきものはないかな。ストーリーもそんなに凝ったものではないし。

 また、平和を訴えたいのか、滅びの美学を描きたいのか、戦争を美化したいのか・・・そのへんも曖昧。

 中途半端な気もした映画であった。同じ戦艦ものであれば、「亡国のイージス」とかの方がよほどよいストーリーだし、同系の海戦ものであれば、ローレライの方がストーリーがしっかりしている分それなりの感動もあったが・・・。この映画にさほどの感動はなかった次第。

 こういう、戦争物を見ると、必ず思うのが平和の大切さ。この映画が戦争を美化したいと思って作られたものだとしても、私が思うのは、戦争の無益さ、不合理さだけだ。

 まぁ、戦艦マニアが見れば、その再現性に目を見張る映像なのだろうが・・・最近の戦争を是とする風潮に傾きがちな不況の世の中において、航空戦が主になってきた時代に大艦巨砲主義を貫いた不合理な軍艦を美化する映画をあえて作るのはいかがかと思うよ。

 憲法9条2項の武力放棄の条項を変えることを狙っていることが明白な、国民投票法案の衆議院での強行採決を見るに・・・このような映画はどうなのかなと思うわけで。

 力は持っていると使いたくなるわけで。戦力もしかり。戦艦大和もあったからこそ、それを沖縄特攻に使おうという発想が出てくる。

 だからこそ、武力放棄の憲法9条2項は重要になってくるのは自明だ。そういう意味でこの映画を鑑賞すると武力保持のナンセンスさがわかってよいのかもしれないが。

2006年12月11日

理想はきちんと謳ってほしい ~残業代ゼロ法制、日本版ホワイトカラーエグゼンプションに思う~


 厚生労働省が、来年度の労働法制見直しの最終案を出したとのこと。

 「残業代ゼロ労働導入」というような見出しが各新聞誌上に踊ったわけで結構ご存じの方も多いだろう。

 一定基準を満たした会社員が1日8時間の労働時間機制からはずれ残業代を払う必要がなくなる「日本版ホワイトカラー・エグゼンプション」が盛り込まれたことが問題になっているわけだ。

 サービス残業や、残業代かわしの管理職昇進、フレックスタイム制や変形労働時間制の美名の元での残業代ゼロということが昨今の不況において常態化してきたから、なんなら法制度もそれに合わせてしまおうとでも言うのだろうか。

 なんだかなぁと思う。

 まるで、今までは軍隊ではないけれど自衛隊がここまで大きくなり、実質的な軍隊の様相を呈してきたから、憲法も変えて自衛軍を創設しましょうといった、先頃から問題になっている改憲議論に似た乱暴さがあるんじゃないだろうか。

 9条があるから、踏みとどまっている部分がある。

 同じように、労働基準法があるから、前記のような残業代回避策をする経営者にある種の罪悪感を与えて、労働者への圧迫がある程度で踏みとどまっている部分があるのだろう。

 年収が400万円、700万円・・どちらかを基準に、残業代ゼロにしようという議論になってきている「日本版ホワイトカラー・エグゼンプション」・・これが通ってしまったら、踏みとどまる部分がなくなってしまうのではないだろうか・・・。

 景気が回復しなければしょうがないだろう、そんな景気回復の美名の元に、強行されるのだろうか。

 景気が良くなってだれが喜んでいるのだろうか。いざなぎ越えの好景気といわれるのがまさに今なのだが、誰が豊かになっていると感じているのだろう?みなさんはどうだろうか?

 一部のアッパークラスだけではないだろうか、セレブと言われて、超高級な世界に住む人は確かに増えたかもしれない。

 

  六本木ヒルズを見て・・・これは現代のバベルの塔ではないか・・そんな不自然さを感じたのを昨日のように思い出す。高いところは大好きで、必ず登る私が、ヒルズだけは登っていないのは・・・一語り「ヒルズに思う」に語ったとおりだ。

 2割のアッパークラスが8割の富を独占し、8割のロウアークラスが2割の富を奪い合う。パレートの法則はここでも成り立ってしまうのだろうか。

 それを防ぐための労働法制ではないのだろうか・・・

 理想論でもいい・・・憲法9条に言う平和論が高すぎる理想であったとしてもそれを宣言していることでそこに近づけるのではないだろうか。

 だから、労働法制も、高らかに、働かせすぎないこと・・その当たり前のことを謳っていて欲しいのだ。

 景気回復の美名の元に富んだ者をますます富ませ、貧しい者をますます貧しく追い込んでいくことが本当に景気回復につながるのだろうか。

 大東亜共栄圏という美名の元に戦争に突っ走った戦前を思わせる感もある。

 労働法制は理想を堅持してほしいものだ。

2006年08月15日

朝ドラ「純情きらり」と靖国参拝

 今、放映されているNHKの朝ドラ「純情きらり」では、戦争がどれほど庶民を圧迫していくか・・・テイストは現代風であるが、よく描き込まれている。

 どうも昔気質の私は、描きが「ぬるい」と思ってしまいがちであったが、最近ではそんなこともなくなかなか追い込み激しい感じで、戦争の悲惨さが描き込まれていて好感が持ててきている。

 そう・・・何を大義名分に掲げようと戦争はいけないことだ。親しい者を悲惨な運命に追い込むものだから。それを感じさせてくれる。

 首相が戦争肯定の意味合いを持つ靖国神社に参拝し、日本が軍隊を持つように改憲の論議の火種さえ蒔かれたこの時節に、このような戦争の悲惨さを描き込むドラマを放映するNHKはさすがだ。

 その「純情きらり」・・・いつもBS2ではAM7:30から放映されているのが、小泉首相の7:40に靖国到着というやや奇襲にも近い時間帯での靖国参拝のために放映時間をずらしたとのこと。

 戦争の悲惨さを克明に描く「純情きらり」が首相の靖国参拝という戦争肯定の意味合いを持ってしまう靖国参拝に放映時間がずらされてしまうとは大いなる皮肉ではなかったろうか。

 今日、終戦記念日・・・何があっても戦争はしてはいけない。人殺しの手段たる軍隊は決して持ってはいけない。それを痛感している。

2006年08月10日

広島・長崎を素直にわかろう

 「公約は守るべき」・・・そんなはぐらかしのような言葉で、靖国参拝を一国の首相として意欲を見せているという報道がなされているのを旅すがらのテレビで見かけた。

 うーん・・・

 しかも、昨日は長崎原爆投下の日。その長崎でまさにその日にそのような言説をしていたというのだ。

 私が長崎を初めて訪れた時・・・その原爆の悲惨さ、戦争の悲惨さ・愚かさ、そして平和の大切さをひしと感じた。

 もてない男のその後の語りサイト内リアルタイム旅行記リアルタイム旅行記「江戸のかたきを長崎で・・・討たれたくはないけどね」

 旅すがらにノートPCを担ぎながら書きつづった文章にも、かく語らざるを得ない、反戦の思い、平和への願いに打たれざるを得なかったのだ。

 永井隆博士の姿勢にも本当に打たれた。
 己のごとく人を愛したひと ~永井 隆~(長崎市サイト内)

 このような人を生んだ、長崎の原爆の現場でその日に・・己の主張ですからと、公約は実現しなければ、などというはぐらかし、詭弁にも近い言葉で戦争肯定につながる意味合いを持つ靖国参拝への意欲を表すのはいかがなものなのだろうか。

 広島・長崎を素直にわかる・・・実際に足を運んで見てみればなおさら素直にならざるを得ないと思うのだが・・・

 もてない男のその後の語りサイト内リアルタイム旅行記リアルタイム旅行記「広島に行くんじゃけえ」にも行った時の素直に書かざるを得なかった。

 広島・長崎を素直にわかろう、受け止めよう。そしたら、きっと反戦の思い、武力放棄の現憲法の尊さがわかってくると思うよ。8/6,8/9を毎年迎えるにあたって私はその思いを新たにする。

2006年02月16日

愛の母子像のご主人の気持ちを思うに・・・

 結婚して、妻を持つ身となって特に思ったのは・・
 愛の母子像の、ご主人はいかばかりの思いだったのだろうか・・・
 絵本「パパママバイバイ」やほかの記事を読むに、ご主人は毎日のように病院に通っていたようで、そして、息子たちがなくなったこともひた隠しにして妻を励まし続けた。
 その気持ちを思うに胸が締め付けられる思いで、夜少し眠れなかった。

 私も昨年の秋は今は妻となった彼女の入院中、毎日病院に通った。結婚式もキャンセルせざるを得なかったし、二人の将来も考えられるかどうかも分からなかった状態だった。
 とにかく必死に通った思い出がある。

 だからこそ、愛の母子像のご主人の気持ちを思うに・・・本当に苦しくなる。シンクロしてしまう部分が大きいからだ。

 一瞬にして、命を奪うばかりか遺族にまでこのような塗炭の苦しみを味あわせる人殺しの手段たる軍は許されるものであろうか。そうではないであろう。

 私の家庭は、今はある程度落ち着きを取り戻し、これからもまったく予断は許さないのだが、結婚もでき、そしてなにより、愛する妻が隣にいる、一緒に笑い合える。その幸せが痛いほど噛みしめられるし、大事にしていかねばならないと確信している。

 そのためには平和が必要だ。ゆめゆめ平和を乱す制度ができてはならないし、人殺しの手段を容認はできないと思っている。

 昨今の雰囲気は軍や戦争というものをどこか遠くのおとぎ話と感じてはいないだろうか?決しておとぎ話でもなく、現実、軍というものがあるゆえの苦しみが、明日我々のもとに降りかかることさえなきにしもあらずというリスクを負っていることを考えさせられるのだ。

2006年02月15日

愛の母子像を見に行ってきました。

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 先日の一語りで語った愛の母子像・・・実際に見に行ってきました。
 婚姻届を出した昨日・・・せっかく休みを取ったのだからどこかお出かけしようということで午後に妻と二人で。
 二人とも絵本「パパママバイバイ」を読んで、いろいろ考えていたので、関心が一致したわけである。

 そして、二人が付き合い始めたきっかけとなったのが、そう、この母子像のある横浜の港の見える丘公園付近を散歩したデートであったことも感慨深いものがあったので。

 母子像・・・この近くを確かに通っていました。私はここ数年来神奈川在住なので、港の見える丘公園は何度も来ていた・・・私の視界には入っていたのだろう。しかし、気づかなかった。

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 この小さな、そう、真実の事実を述べた説明書き一つを立てるのに今現在の首長たる中田横浜市長の鶴の一声が必要だったのだ。どうしてなのだろう・・・
 しかし、この説明書きが立てられた意義は大きいし、この説明書きの英断ゆえに中田市長はとてもすごいと思う。

 平日にしてはこの風光明媚な公園には人が結構来ていた。そして、年配の方はこの母子像を注目される方が多かった。
 若い方は・・・やはり素通りという感じの方も多かった気がする。

 僕たちはしばらくここにたたずんでいた。お互いいろいろ考えながら・・・

 このお母さんが見たかった海は・・・この像のそばから見える海は・・・
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 こんなにきれいで、そう、ベイブリッジも見える。

2006年02月12日

パパママバイバイ

絵本「パパママバイバイ」(早乙女勝元 著)

ここにもよくコメントをいただく、みのさんのブログ猫の生活での「愛の母子像」記事に影響されてである。

とても意義深い絵本であった。

憲法改正による軍容認という、一昔前であれば考えられないであろう論議さえ出てきている昨今、この話はよくよく考えていくべきであろうと思われる。

今現在も軍という人殺しの手段により、平和が崩されていっていることを再度思い浮かべるべきであろう・・・この絵本はその基本的なことを実感を持って感じさせてくれるものだ。

この事件の経過は、上記みのさんのブログの記事より諸記事へのリンクが張られていてよく分かるようになっている。この事件は決して風化させることなく、今こそ考えてみるべきところだろう。

2005年12月01日

NHK「その時歴史は動いた~真珠湾への道 (前編)」で平和を考えた

 昨日録っておいた、NHK[その時歴史は動いた~真珠湾への道 (前編)」を見た。
 山本五十六(山本五十六 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)の決断を描いた番組。

 とてもいい番組であった。山本五十六・・・太平洋戦争時の連合艦隊司令長官・・・その生涯の概略は知っていたものの・・・あらためてNHKがまとめると、迫力がある。
 山本五十六が、そこまで強硬な対米非戦論者であったことは、そうだったのかと新鮮にさえ感じた。私自身は山本五十六は真珠湾攻撃の立案者でもあるから、対米戦の消極論者止まりかな、結局は軍人だしなという先入観を持っていたので・・・この番組でまとめられたところを見て、本当に自分の命を狙われるほどに対米非戦論者だったとは、初めて知った。思った以上に偉大な人だったんだ・・・うん。

 なんだか、最近の世の中・・・間違った方向へ突き進んでいるのは、それこそ山本五十六が生き抜いた時代と同じような気がしていて・・・ファッショ化というのかな・・・戦争しようぜ、軍作ろうぜみたいなことがかなり素直に受け入れられてきているのがこわい感じで・・・そういうこのご時世で、あえて山本五十六を特集したNHKはすごいっ!!とさえ思った。

 その思いで、いろいろブログを検索していくと、みなそれぞれに感銘を受けたようだ。

 中でも・・・
 ブログ「妖怪描きの日記」2005-12-01「その時歴史が動いた」~山本五十六~にとてもいいことが書いてあった。以下引用。

「しかし山本五十六ぐらいの人が、数年前から戦争回避に尽力しても駄目なのだから、戦争に動くパワーは恐ろしい、政府首脳部と、その誘導による国民の熱にはとても太刀打ちできないのだろうか。
まぁ兎にも角にもきな臭い所には寄り付かないのが一番だと思うのですが、今現在イラクに自衛隊がいる始末・・・、また派遣期間を一年延長するらしいです・・・、英国さえ年明けから撤収するというのに。」

 本当に今の世の中・・・かなりやばいと思いますよ。

 昨日の一語りで書いた「私は貝になりたい」・・・米軍主導の戦犯裁判の行き過ぎを実体験をもとに赤裸々に糾弾した本であるが・・・今のイラクでのフセイン裁判も、米軍主導での行き過ぎを指摘する声も見受けられる昨今・・・結局、同じことが繰り返されているのではないだろうか。

 人を無条件に殺していい正義なんてどこにもない・・・やはり、そう感じる。戦争は勝った方も負けた方も、決していいことは残さない・・・人殺しの道具たる 軍 などというものは決して保持してはならない・・・そう考える。

2005年11月30日

「私は貝になりたい~あるBC級戦犯の叫び~」(加藤哲太郎 著、春秋社)を読む

 とても意義ある本である。
 かなり映像化されているので、この話は、そちらで知らないわけではなかったが・・・本として出ているものをひょんなことで読む機会を得た。

 戦争のむなしさ、不条理さ、残酷さがよく分かる、実感をもった叫びであった。

 平和を考える上で、とても貴重な文献だと思う。じっくり読み込むにはちょっとつらすぎる・・その不条理さが、胸に迫りすぎてしまう部分があるから。しかし、重要な本である。

 どんな話か・・・加藤哲太郎さんに関して知ると大体分かる。
 加藤哲太郎 (フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)

2005年09月21日

後藤田正晴氏の死去が悼まれる

 内務官僚から警察官僚、そして自民党代議士というばりばりの保守路線とも取れる生涯を送った後藤田正晴氏が亡くなったとの報を今日の夕刊で知った。

 ショックだった。

 というのも

 asahi.com(http://www.asahi.com/obituaries/update/0921/001.html)によると・・・

「中曽根首相が「戦後政治の総決算」を掲げるなかで行った「防衛費のGNP(国民総生産)1%枠の突破」などに対しては、内側から歯止めをかける役目を果たした。87年9月、ペルシャ湾の安全航行の寄与策として中曽根氏が掃海艇派遣を言い出した際には、首相執務室で怒鳴りあってまで反対したというエピソードも。」

 とのこと。

 自民党代議士としては珍しく、戦争を知る身として、すごく立派な護憲派であった。新聞の記事を待たずとも、そのことは知っていたからだ。
 先の自民党による憲法改悪草案に関しても、一家言持っていたとのこと。

 私も、学生時代、防衛費GNP1%枠とか、シーレーンとか言っていた頃から平和に関しては関心を持ってきたし、中曽根首相もずいぶん軍事拡張政策だなぁと感じたものだが、今のような軍拡路線に比べればかわいいものだったと感じている。

 それも、このような後藤田氏のような護憲派が与党内にいたからだろう。

 戦争の記憶が薄れ、平和概念の揺らぎがある不安定な現在、貴重な護憲派の人がいなくなってしまったと、悲しく思えた今日。

2005年09月11日

選挙と平和論~天木直人氏に注目した~

 今日は
 私は早々に投票を済ませているので、まぁ、きちんと今回も選挙権を行使したことになる。

 2003年11月9日の一語りなどで、選挙権の行使の重要さを語っているが、やはり選挙に行くって、民主主義の根幹だと思うわけで・・・

 選挙一色の新聞を眺めながら、神奈川11区で天木直人さんが立候補しているのがすごく響いてきた。
 神奈川11区は小泉首相のお膝元。小泉氏が圧勝することは目に見えているのだが、それでも、そこで立候補することがすばらしい!!
 実は、天木直人さんの著書「さらば外務省!」(講談社)は思わず買ってしまった本だ。非常に興味深い本であったのであったし共感が出来た。
 この本の副題が~私は小泉首相と売国官僚を許さない~である。大使という立場で、自衛隊イラク派遣に反対し、大使の立場から意見具申の公電を何度も打って、大使の職を更迭同然に追われた人である(意見具申は外国の情勢をよく知る専門家たる大使として当然行使しうるものであるが、上に意見して疎まれるのを恐れ最近ではあまりする人はいないらしい・・)。

 その平和概念はとても共感できるものだ。そもそも自衛隊をイラクに派遣することになんの意味があるのか?当時の中東の一国であるレバノンの大使であった天木氏の疑問はとてももっともなことであろう。しかし・・・その結果・・・

 今回の選挙も天木氏自身も負け戦とはわかっているだろう・・・しかし、義憤に駆られやむにやまれず立候補した・・・その貫き方がとてもいさぎよいと思う。
 外務官僚という大樹に寄りかかっていけばいくらでもいわゆる「勝ち組」の人生を歩めた立場であっただろうに、あえて負け戦を選び主義を貫かんとしている、そこはとてもすごい。

 選挙に勝つという戦略上は、神奈川11区での立候補は愚行に等しいかもしれないが、しかし、敢えて神奈川11区で立ったことには記憶に残る意義があるだろう。

天木直人 プロフィールボード

2005年08月09日

「憲法を変えて戦争へ行こうという世の中にしないための18人の発言」(岩波ブックレットNo.657)読了

 今日は、長崎に原爆が落ちた日である。11時2分~3分。
 長崎に旅した時・・そう、もちろん平和について考えたのであるが・・・やはり、平和の貴重さを再確認できた想い出を思い返します(「もてない男の心の語り 番外編 もてない男、長崎に行く 第3章 平和について」 参照)。

 先頃の、私としてはとても容認できないと思う自民党改憲草案が出たあと、普段はあまり意識化することなく来ていた平和意識の目覚めのもと、一冊のブックレットを読了した。

「憲法を変えて戦争へ行こうという世の中にしないための18人の発言」(岩波ブックレットNo.657)

 とてもよい本である。当たり前のことが当たり前のように書かれている。
 どうして、平和を語ることが声を潜めなければならなくなったのだろうか・・・その方が当たり前ではないのではないか・・・。なるほど、平和は金にならないのかもしれない・・・アメリカなどでは軍需産業という金づるをつぶさないためにも軍は必要かもしれない。しかし、日本では軍はなくてよいし、建前上はないのだ。不況だから平和は語れないのか、金にならないことは語るのがはばかられるのか?・・・そんなせちがらい世の中で、平和の貴重さという当たり前のことを当たり前のように語った貴重な本である。公私ともに忙しい私であるが、一気に読み終わった。

 そう、現在30代である私が、教育を受けた時代は至極当たり前のこととして受け入れられていた、平和・反戦。現在は、その当たり前さが、当たり前でなくなり、それを唱えること自体はばかられる感がでてきてしまった。そんな中で、このブックレットはその当たり前のことを、当たり前のこととして主張した本である。平易な表現で、18人の論者が自らの体験を元に実感を持って語りかける口調にとても共感できる。すぐにでも手に取り読めば、目が開ける思いに至るのではないだろうか、と思っている。

2005年08月08日

人は過大な力を持つと暴走するものである ~人殺しの手段は持ってはいけない~

 さて、私は映画ファンであり、3度のご飯と同じくらい映画好きであることから、映画的観点から平和を考えてみよう。

 ちょっと前になるが、非常に話題になった映画「華氏911」を覚えていらっしゃるだろうか?突撃レポーター兼監督というユニークなマイケル・ムーア氏の映画である。イラクに子どもを送っていない議員達に突撃インタビューをしたムーア氏にほとんどの議員がノーコメントであったラストシーンを思い出す。
 この映画は、非常に皮肉を効かせながらも、俗っぽく言えば、おちょくりながらも、戦争反対を訴えている映画であり、とても効果的な表現であったのは周知のところであろう。

 そのムーア監督の出世作といえば、「ボウリング・フォー・コロンバイン」であることも周知の事実である。

 この映画はコロンバイン高校の銃乱射事件の背景に何があるのかということを克明に追った、やは突撃レポート的映画である。銃乱射事件の背景にはアメリカの銃社会があるとし、多くの弊害をもたらしている銃を削減ができないのは全米ライフル協会が巨大なロビイストとして存在して、政治に巨大な圧力をかけているからだということを、痛烈に皮肉った映画となっている。

 そう、銃・・・その人殺しの手段を持った時、人はそれを使ってしまうということをまざまざと分からせてくれる。そして、銃という人殺しの手段があるということが既成事実・既得権益として存在してしまうとそれを撲滅することがほとんど不可能であるということも、非常に実感を持って分からせてくれる。
 この映画を見るに、銃の保持に賛同する人たちは銃の自衛の効果を説くが、ムーア氏は、それを皮肉り、かえって子どもたちが銃を乱射するという事態を招いてしまっていることを映像を通じて訴えかけてくるのである。自衛のために持った銃・・・なるほど、かの名西部劇「駅馬車」などではかっこよくでてくる。銃は悪人を追っ払ってくれるすばらしいものである。しかして、それは今、犯罪の増加においてアメリカ社会を苦しめている存在に他ならない。その象徴的な事件がコロンバイン高校の銃乱射事件なのである。
 それにしても、「駅馬車」でジョン・ウェインが銃で撃ち殺したのはインディアンであり・・・今では、インディアンは悪者どころか、不当に侵略された被害者であることは明らかになっており強烈な皮肉ではあるが・・・

 日本における憲法9条周辺のことを思い返すに・・・非常に考えさせられる。9条を変えても、軍隊という人殺しの手段を持とうとしてしまっている考え方が表明された。人殺しの手段である軍を持たんとしている。これは、自衛自衛という旗印の下、銃を持つことに等しい。そして・・・その先は・・・
 そう、銃社会が高校生の銃乱射につながり、今ではハイスクールに警官がいるまでに暴走をしたのと同じように、終局的には暴走をしてしまい収集がつかなくなることは容易に想像されよう。
 そう、戦前の軍部が議会の制止を無視して暴走したことを、必ず歴史で学ぶではないか。

 ただでさえ、実質的な軍隊である、自衛隊が存在してしまって、既成事実・既得権益として存在してまってこれを引っ込めることが困難であることは、アメリカ社会で銃を撲滅することが困難であるのと同じくらい困難であることに共通点が見いだせるのだから。

 既成事実を引っ込めることができない・・・これは今日郵政民営化法案が廃案になったことでよく分かるではないか。郵便局という既得権益が政治を制御してしまったいい例である。
 自衛隊は、まだ、9条の足かせが最後の砦として残っているから暴走していない。
 この足かせを外して、人殺しの手段たる軍隊を既成事実化し野に離すことは、どれほど恐ろしいことか、よく考えた方がよい。

2005年08月07日

原爆の日に実感する平和の尊さ、現憲法の尊さ

 昨日は広島原爆投下の日である。

 小学校の頃から8月6日午前8時15分は印象深く記銘された日時である。学校生活を公立畑で過ごした私であるし、その意味で、特別な平和教育を施されたわけではない私だが、この日だけは忘れ得ない日として残っている。

 昨日の朝食を食べる前に黙祷した、せざるを得なかった。

 というのも、今年は、あの自民党の改憲草案(9条護憲堅持派の私としては改悪草案にしか思えないが・・・)を見てしまった後だから、なおさら、8月6日午前8時15分が忘れてはならない日だと思ったからだ。

 私は、そう、かつて広島を訪れた。原爆の記憶を身体で感じるために。
 「もてない男の心の語り 番外編 もてない男、広島に行く 第3章 原爆を学ぶ」 参照
 平和について考えた。
 
 その後、長崎も訪れた。その時も平和について非常に考えさせられた。
 「もてない男の心の語り 番外編 もてない男、長崎に行く 第3章 平和について」 参照

 私は戦争を知らない世代である。しかして、少なくとも私が学校教育を受けた20年位前は、平和の尊さを感じるのが当たり前だった時代にごく普通に教育を受けた者が、戦争の悲劇の象徴の地を訪れ、実感できたわけだ。理屈じゃない・・・戦争という殺し合いの無意味さ、虚しさ、そしてその罪を。もちろん、書物、映像資料そのほかで学んではきたが、実際にその地を訪れてそれを血とし肉として平和の尊さが分かったのだ。

 法律論や感情論、国際関係論、いろいろな見地から改憲論議はできようが・・・ぜひ一度両地の原爆に関する資料館を訪れてみるといい。理屈じゃない戦争という殺し合いの無意味さが分かるから。

2005年08月03日

現憲法はアメリカからの押しつけなのか?

 昨日に引き続き、憲法の話題を考えてみたい。特に、戦争放棄について。

 なるほど、現憲法は、戦後占領軍、特にアメリカの強力な指導に基づいて作られたことは事実だ。
 初め、日本側に作らせた草案・・・松本案・・・は国体護持を強調した大日本帝国憲法と差がほとんど変わらないことから、GHQが急きょ作った案を元に現憲法は出来ている。

 今回の改憲論議でもそうであるが、改憲推進を考える人は、その過程をひきあいに、アメリカからの押しつけ憲法であることを論拠にしたがるであろう。

 しかし、初めから日本側に機会が与えられいなかったわけではない。まずは、松本案を作る機会が与えられていたのである。そこで、民主化にたる憲法草案が出来なかったこともまた事実なのである。

 実際に、今、現憲法を見返しても、これほどすばらしい理念の憲法はほかにはないと思われないだろうか?完全なる戦争放棄を謳った憲法は。

 戦争も東京大空襲で首都を焦土にされても、なおかつ降伏しなかった当時の日本。広島・長崎に原爆が落ちてようやく降伏に至ったきわめて保守的な当時の日本に、かくなる革新的な憲法を作る余裕はなかったであろう。

 なるほど、過程としては、押しつけだったかもしれない。しかし、それは真の民主化に必要な押しつけであったことは自明であろう。では、松本案のままの憲法で今の日本の繁栄があったか?答えはおそらく否であろう。このような押しつけがなければ、日本の民主化は進まなかったことは事実であろう。

 アメリカを中心とする連合国はとてもいい効果をその時点ではもたらしてくれたのだと思う。その点でこの押しつけは許される、むしろ感謝すべきだろう。

 しかし、その後の、朝鮮戦争のために日本に再軍備を求め、その後冷戦のための浮沈空母として日本に再軍備を求めたアメリカの押しつけはよろしくない。これはまさしく押しつけであろう。自衛隊という軍隊を持つことが日本のためになっているだろうか?朝鮮戦争時に経済的には潤い景気がよくなったにしろ・・・今の自衛隊にかかる費用のコストを考えるに、微妙な話ではないだろうか。

 だから、押しつけは押しつけでも、いい押しつけとあると思うのだ。
 よろしくない押しつけにあわせて現憲法を変えるのはいかがなものか・・・その疑義を呈したのが昨日の一語りなわけで。

2005年08月02日

日本に軍隊は必要なのだろうか

 7/29の一語り「新聞が届く幸せ」で書いたように、新聞を取り始めたので毎日うれしくてよく読んでいたりするわけだが・・・
 今日の新聞の大見出しは、自民党の新憲法草案が出来上がったニュースだろう。

 目玉としては、憲法9条に「自衛軍」の概念を取り入れることであるようだ。今までは軍隊ではないけど、実質的な軍隊たる自衛隊を保持していたというあいまいな状況の打破を狙ったものなのだろう。

 結局改憲論議はそこに尽きるわけなのだが・・・そう、自衛隊を軍隊として正式に認定したい・・・そのための改憲論議と考えて差し支えないだろう。

 でも、なんだかなぁ・・・と感じざるを得ない。

 自衛隊という軍隊がある。これは、まぁ、朝鮮戦争時、日本を不沈空母として活用したかったアメリカの思惑が強く働いて創設されたもの記憶しているが、その戦争が終わった後も、存続し続けていて、発展していき、世界でも有数の軍隊と化している、既得権益的事実である。

 ただ、その既得権益的事実には相対する形で、現在の憲法9条のすばらしい概念として、2項に「前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。」という条文がある。

 その世界に類を見ない平和主義のすばらしい理念と既得権益的事実の現実の不整合を正そう・・・それが今回の自民党草案条文の意図であることは明白であろう。そう、自衛隊ではなく「自衛軍」としていることによく表れている。

 憲法という国の最高法規と現実の不整合を正そうということはいい。しかし、なぜそれが既得権益的事実たる軍隊を認める方向に憲法の方を変えていくということになるのだろうか。朝鮮戦争も終結し、東西冷戦も終結した今、その便宜上作られた軍隊である自衛隊をなくす、自衛隊の非軍隊化という形での、現憲法のすばらしい理念に沿うように現実を変えていくということにはどうしてならないのだろうか。