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世間一般での「負け」をどう受け止めていくか

 重松清さんの小説「口笛を吹いて」の中に、自分の実力とは別次元の人間の政治的な力学でレギュラーになり損ねることが予想される少年野球チームでがんばる我が子に「まっすぐな悔しさだけですむ、ねじれたりにごったりしない負け方」を教えることができるのだろうかと悩む30数歳の男性主人公がラスト近くになって描かれている。

 なんかよく分かるし、切なすぎてやりきれない気分になった。
 
 というのも私自身が、誰がどう見たって多分、人生「負け」ているからだ。
 流行言葉で言えば「負け組」だ。
 
 私がどう「負け」ているのかは大して面白くもない話なのでここではつまびらかにしないが、エッセイストの酒井順子さんは、「30代・未婚・独身」女性はいくら仕事ができたって負け犬なんだと言い切ってベストセラーを出したが、その概念を男性まで拡張すれば、32歳で未婚で独身で、でも、結婚はしたくても相手がいなくてできないという時点で私はかなり負けていると言うことができよう。

 いやね・・・世間的に「負け」ても本人の気の持ちようで「負け」を「勝ち」に変えるという考え方もありますよね。
 それが、今流行の「癒し」みたいな概念に繋がるんでしょうが・・・それってごまかしのような気もする。
 私は、大学受験浪人をしたんだが、現実的な負けをもう一度勝負して勝ちにしてきたような負けず嫌いなところもあるので・・・世間的な「勝ち」への執着を捨てきってしまったら、自分はなにによって立っているのかわからなくなる(アイデンティティの拡散と言おうか)。
 いつかは勝ってやるぞみたいな執着って・・・未だ持ち続けているのがいいのか悪いのか分からないんだが、持っちゃっている。

 人生大いに負けている私だが、冒頭の重松清の作品の言葉を借りれば、こういう語りを書いてしまっている時点で、私の負け方は「ねじれたり、にごっちゃったり」はしているなぁ。

 明日は早起きして山梨に行って来ます。友人の結婚式なんです。せっかく山梨まで行くので、月曜日はお休みをとって、向こうで温泉でもゆっくりひたってくるつもりです。

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